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「鬼滅の刃」で全集中!際を超える!〜映画留学という考え方-ひとけんコラムNo.7-

  • 著者: 池尻 達紀(人と医療の研究室)
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「人と医療の研究室」の池尻達紀と申します。今回はブームに乗ってキャッチーなタイトルをつけてしまいましたが、「ひとけんコラム」として内容は真面目に書いています。留学が難しい状況が続きますが、そのような中で読者の方々に一つの選択肢をご紹介したいと思います。

※ヘッダー画像は「鬼滅の刃」公式twitterで公開配布されていたものを使用させていただいています。

劇場版「鬼滅の刃」無限列車編で考えたこと(注:ネタバレ含みます!)

都会では今でこそ映画鑑賞も難しい状況ですが、第二波と第三波の間、11月初旬頃に筆者は、感染対策には十分に留意した上で研究室メンバーと共に劇場版「鬼滅の刃」無限列車編[1]を劇場で鑑賞しました。普段、アニメを特別によくみるということはありませんが、小児患者さんが「ねずこ」という一言で注射を頑張ってくれるという場面に何度も遭遇し、関心を持ったのです。

映画では、敵である魘夢(えんむ)という鬼たちと主人公である炭治郎たちとの列車での戦いが主軸となり物語が進んでいきます。迫力のある展開の中で、大切な人を守る覚悟など、心を揺さぶるエピソードが散りばめられている素晴らしい映画でしたが、筆者が最終的に一番印象に残ったのは魘夢の使う「人が見たい夢を見せる」技でした。魘夢は多くの列車の乗客をこの技で操り、主人公たちを苦しめるのですが、炭治郎はその「夢」[炭治郎にとっては「(鬼に殺されたはずの)家族ともう一度一緒に生きる夢」]を断ち切り、現実と向き合って魘夢(えんむ)を斬るのです。人は、「こうあったら良かった」「自分の人生はこうあるはずだったのに」という「夢」をみながら、そうでない現実を前に進んでいくのだと思います。筆者は、この映画(原作)が技巧的に提示する人間の性に強く共感し、考えさせられました。

映画を観終わってすぐ、このことは日常の診療でも常に考えておくべきことと通じると思いました。医療現場では、10の状態だった患者さんが病の治療後に10まで回復することは少なく、例えば3の状態まで悪化しないように7、8の状態にとどめておく、というようなことが多いと思います。しかし、患者さんは得てして「10の状態であるはずだった自分」を強く夢見て、病をどうしても受け入れられないことがあるようなのです。あるいは患者さんの家族が「ずっと元気なはずのおじいちゃんおばあちゃん、お父さんお母さん」を諦められない時もあります。私たち医療者は、患者さんのその大きな苦しみを理解し、共感しようと試みた上で、「こうあるはずだった自分」から決別し、前を向いて生きていく手助けをしなければならないのだと考えさせられました。

留学とは何か -映画留学の可能性-

このように、映画には、日常に活かすことができる様々な考え方のヒントが隠れています。他の例としては、「パッチ・アダムス トゥルー・ストーリー」という映画を自宅で観た時に、「医師は職業人として医師である前に一人の人間であること」「患者さんも患者さんである前に、一人の人間であり、その思いなど大切なことは目に見えない(心眼でみなければならない)こと」という、私の医師としての考え方に大きく影響する感想を持ちました。実際に、映画を学びの教材として活用するシネメドュケーションという考え方もあります。その系譜や課題について扱った論文中に以下のような示唆に富んだ記述があります。

「芸術作品である映画には、健康、疾病、生命倫理、身体など医学的な課題やそれに直面する人間、人生を対象とする作品も少なくない。それらの映画作品には、表現者側からの積極的なメッセージが込められており、また鋭く問題提起を行っていることもある。すなわち映画受容者への現状に対する見方や考え方の変更、パラダイムの変換に迫っている。受容者は、作品やそのなかに含まれる課題を肯定するにしろ、否定するにしろ、自分の内側の認識として取り込み、思考することになる。『シネメドュケーション (cinemeducation)』においては、これだけにとどまらず、課題に対する自分の見方を脱構築し、新たな価値を創造することを積極的に教育者によって促すことを目的とするものである。 」[2]

 

では次に、映画が留学とどのように繋がるのか考えるために、「留学とはなにか」を考えてみたいと思います。広辞苑第7版によると、留学とは「よその土地、特に外国に在留して勉強すること。馬場辰猪、自叙伝『彼は四人の青年と共に、海軍研究のために英国へ-することを命ぜられるゝに至つた』.『内地-』」と簡単に記載されています。[3] この定義中の「よその土地に在留して」という部分は、このインターネット時代においては、オンラインや芸術作品の中の仮想空間という第三空間を想定したとしてもそれほど突拍子もないことではないかもしれません。また、「勉強する」の具体的内容について今回、INOSHIRUさんのサイトに掲載されている数々の留学体験記を参考に、ポイントとなってくる点を以下にまとめてみました。

①視野を広げる、新たな視点を持つ

②当該分野の知識を得る

③海外の研究手法など、何らかの技術を獲得する

④人との交流機会を得る

⑤語学力を得る

⑥副次的に、旅行などリラクゼーションの機会とする

このうち、①や⑤は、映画でも一部代替することができるかもしれません。②の知識についても、映画をきっかけにあるテーマに関心を持ち、それをインターネット上で調査する、ということはできそうです。現代は様々な 「再定義の時代」とでも言うべき社会を経験しています。国家とはなにか、と言うような壮大なテーマもそうですが、もっと日常生活レベルで「留学とは何か」と言うこともまた、考え直す必要がありそうです。このような中で、映画を学びの場として活用する、「映画留学」という考え方については検討の価値があるのではないでしょうか。

映画留学の限界

ここまで述べてきましたが、実際の留学が映画留学で完全に代替できるとは考えていません。まず第一に、受動的であるというpitfallには注意すべきだと思います。能動的に頭を働かせなければ、漠然とした感想を持って鑑賞を終えてしまうことが少なくないと思います。(そしてそれは娯楽としての映画鑑賞においては全く間違ったことではありません。)シネメドュケーションにおいても第三の「教育者」という立場が前提とされています。一人で映画を鑑賞して、何か具体的な学びを得ようと考える場合には、それなりの工夫や心構え、構造化が必要でしょう。

また、より重要な点として、バーチャル空間は現実世界の補助に活用することができたとしても、完全にそれに取ってかわることはできない、と思います。これまでの話と矛盾するようですが、やはり現実社会、相手の息遣いや纏う雰囲気などを感じながら、きちんと自分の体や心を最大限使ってやりとりをする経験からしか得られないものも間違いなく存在する、と思います。人との繋がりも、基本的にはオンラインはそれ自身で完結するものではなく、始まりにすぎないものではないでしょうか。

 

まとめとして、「視野を広げる」ためには「留学」以外の日常のどこにでもヒントが隠れている、ということをお伝えしたいとともに、海外への「留学」がまた可能となる世の中となることを強く願っています。

 


このコラムは、INOSHIRUさんのご厚意により2020年5月から(10月を除く)毎月、これまでに7本の記事を掲載いただきました。素晴らしい留学体験記が集まる、素敵なコミュニティだと思います。私たちのコラムも、その引き立て役になっていればと願うばかりです。(かなり間接的になってしまうかもしれませんが)留学に関連したコラム記事を今後も寄稿したいと考えています。2021年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

参考文献:

[1] 劇場版「鬼滅の刃」無限列車編, 吾峠呼世晴原作, 外崎春雄監督, 2020

[2] 医学教育方法としての「シネメドュケーション(cinemeducation)」-その方法の系譜と課題-, 仁平成美他, 茨城大学教育学部紀要(教育科学), 2016(65),307-322

[3] 広辞苑第七版(普通版), 新村出他編集, 岩波書店, 2018, p.3085

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