
「世界を食べる会」を通して見えた「食べる」ということ -ひとけんコラムNo.3-
こんにちは。秤谷隼世(京都大学大学院 医学研究科)と申します。普段は博士課程の大学院生として基礎医学研究に打ち込んでいます。iPS細胞による細胞治療の生着効率を高める技術の研究をしています。
さて、人と医療の研究室(ひとけん)コラム3回目では、【食】や【コミュニティ】を起点にして「際を超える」ことについて考えてみたいと思います。【食】を通じた国内留学という選択肢を提示できればと思い、筆をとりました。食のスペシャリストではないので、間違いなどございましたらご指摘いただけますと幸いです。それでは、拙文ですがお付き合いください。
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◆留学せずに「際」を超える:世界を食べる会
今から8年前の2012年、大学1年生のときに友人と東京で「世界を食べる会」というコミュニティを創って遊んでいたことがあります。サークルみたいなものです。「いろんな国のエスニック料理を一緒に作って、食す」っていう何の変哲もない単なるグルメ集団なんですけどね。それがとても楽しかったのです。
10名くらいの少規模で半分が日本人、そして残りの半分が中国人やタイ人といったアジア国籍のメンバーです。大学はもちろん、学部や専門を限定していたわけではありません。僕のように薬学を志す者もいれば、理工学部の学生もいたし、システム工学・建築学専攻の学生がおりました。思い返せば理系が多かったですね(※当時の筆者は薬学部在籍)。
この小さなコミュニティは結局1年くらいしか続かなかったのですが、筆者は活動を通じて「食」に対する多様な価値観を突きつけられました。今となってはいい経験です。
今回は「世界を食べる会」での経験もご紹介しつつ、人類にとっての「食」を様々な側面から見つめてみる事で、人々の「際」を考えてみたいと思います。
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◆生理的な体験としての食事と、食文化の形成
まず、人はなんのために食べるのか?ということから考えてみたいと思います。我々のように医学がバックグラウンドにある者にとってそれは「生命を維持するために栄養が必要だから」といったような、マズロー欲求五段階説でいうところの「生理的欲求」を満たすという目的が思いつくでしょう。日本にいようがアマゾンの熱帯雨林に行こうが、全人類が食文化を保持しているのは明らかにこの生理学的な理由があるからです。
しかし、これだけで人種や民族固有の食文化が形成されるかといえばそうではないでしょう。ここで食文化が存在しなさそうな例を考えてみましょう。例えばライオン。ライオンが食べるものはだいたい決まっています。肉です。シマウマかハイエナかくらいの違いはあれど、基本肉食なので、ライオンの「食」は基本的にはどの群れをとってみてもほとんど同じと考えてもよいでしょう。だから、ライオンの生息地域も大方、食物としての対象(シマウマやハイエナ)が住んでいるアフリカの草原地帯と制限されるのです。
一方、我々人類はどうでしょう。アフリカに始まり、今や世界中に生息する地域を広げています。そして人々が何を食べるかは、住まいを置く環境に依存して(されて)決めている(決められている)ように思えます。
つまり、人類は環境依存的に食べるものを変化させてきたということです(単純化すれば、肉食ではなく雑食へと適応したということです)。少し脇道に逸れますがこれは進化論的な観点から見ても合理的であります。直感的に、「食べられるもの」すなわち生命維持のために必要な栄養素に対するアクセシビリティが大きい(肉だけでなく草も食べる)方が生存競争に強そうですね。実際、人類史を見てみても、ホモ・サピエンスが、自分たちよりも肉体的に明らかに屈強であったとされるネアンデルタール人を淘汰できた理由の一つに、その雑食性(およびネアンデルタール人の偏食)や、雑食性を獲得するために必要なマインドセットの関与を示唆する考察もあります[1,2]。
◆境界としての「食」:食とは、他者認識の指標でもある
さて、話を戻すと、「環境依存的に食べるものを変化させてきた」というところに食文化の起源が見えてきそうです。アザラシを食べるのは、アザラシの生息している北極圏に住んでいるエスキモーくらいで、通常私たちはアザラシを食べません。
こうなると既に、「食」は他者認識の指標として機能してきていることにお気づきかもしれません。「下手物食い」などという場合には、「自分たちとは違ってあの人たちは〇〇を食べる」というニュアンスをも感じとることができるのは筆者だけでしょうか(注釈1)。なお、特筆すべきは「食べるものと食べないものを区別する」という行為は基本的に人類固有のものでありそうだということです[3]。先ほどのライオンの例に見られるように、ライオンは集団によって食文化を形成しているようには見えません。
ここまで、「環境が異なることが、食文化の形成に寄与するのではないか」と論じてきました。さらに我々の食文化をより一層奥深くしている要因の一つは、特定の環境下における集団のなかにおいても同様に、「食べるものと食べないものを区別する」現象が見られるということです。つまり、食に対するアクセスが(ほぼ)均一であるにも関わらず、人は自ら選り好みして「食べるものと食べないものを区別」している点です。
身近であるけれども意外と認識されにくいものの例が、家族間による食文化の違いかもしれません。同じ地域に住んでいる家庭同士であっても、「うちはいつも白米を炊くけれど、Aさんとこはパスタの日もあるらしいよ」みたいな話です(注釈2)。
野林の言葉を借りるとすれば、「食べるものと食べないものとのカテゴリーを変えることによって、自分たちとそれ以外の人たちという境界を作ってきた奇妙な生き物が人間なのである」[3]。
いかがでしょうか。このように、何を食べられるか(環境)や、何を食べるか(意識)の選択による差が食文化を形成し、これが社会や集団を区別する機能として働いていると見て取ることができます(注釈3)。
「食」は境界としても機能するのです。
◆コミュニティと食:境界内部における食は、コミュニティへの帰属意識を強化する
さて、ようやくここで「世界を食べる会」のお話に戻りたいと思います。この集まりは例えば、「今週末、ガパオライスを作ろう!」みたいな提案から始まって、お昼過ぎくらいに必要な食材を調達しに街や商店街へ出かけ、一緒に誰かの家でガパオライスを作り、一緒に食卓を囲んで食べる、といったことをする会です。
この会ではよく、誰かが初対面の人を連れてきて打ち解けあいながら料理するみたいなこともあったのですが、「同じ釜の飯を食う」とはよく言ったもので、変にかしこまって初めましてどうしの自己紹介をするよりも、この会で料理や食事をしている方が、はるかに打ち解けやすかったことを覚えています。
まず何しろ、料理をするというプロセス自体が共同作業ですから、コミュニケーションなしにその達成はありえません。すると次第にお互いが言葉や態度を通じて、意思疎通をしようとするのです。こうした体験の共有が、心理的距離を短くすると筆者は考えます。
そして、料理を作り終えてようやくみんなで食事に入るわけですが、共食によるコミュニケーションの促進、そしてこれを通じてコミュニティへの帰属意識が高まることは、多くの文献が指摘する通りです[4,5](注釈4,5,6)。
(一方、「食べるために仲良くする(生存のため仕方なく)」のか「仲良くするために食べる(コミュニケーションとしての共食)」のかについては別途深い考察が必要と考えています。)
ここに、我々「世界を食べる会」が国籍や専門性、大学といった「際」を超えられた理由があると筆者は考えます。文化人類学者の石毛は、「人間は共食する動物である.食を分かち合うことは,心を分かち合うことである」と述べています[6]。「世界を食べる会」では、この主張を身を以て体験することができました。
ここではまとめとして、筆者が「世界を食べる会」での活動から抽出してきた座右の銘として「口が開けば、心も開く」という言葉を残しておきたいと思います。
◆何のために食べるのか:食に対する価値観は個人間や個人の状況で異なる
最後に、この会に対する反省から「問い」を抽出して締めくくりたいと思います。すなわち、「人は、何のために食べるのか」ということです。これは本稿冒頭での問いかけに同じです。
「世界を食べる会」は、ものの1年も経たないうちに、誰からもメッセージが送られないまま自然消滅しました。衝突や仲違いが起こった訳ではありません。以下画像のメッセージを最後に、誰からの返事もないまま今もFacebookグループだけ、ひっそりと残っています。
”今週末、なんか作りましょう。これを逃すとテストがあるから今しかなさそう。
Shall we make something on this weekend? It will be the last activity until exam”
渋川は、「生活の中での食の位置づけランキング」なるものを独自で提案しております[7]。この中では、無関心派・美食派・栄養重視派・食事重視派の4つのタイプの食に対する価値観が列挙されています。要は、仕事を最優先するのか、娯楽としての食事を楽しむのか、生活維持のための栄養が大事とするか、それとも、食事全体を生活の一部として考えるのか、という分類です [表1, “スッテップ”は誤字と思われる]。
省察するに、「世界を食べる会」で集まったメンバーは多くが「美食派」であったため、試験期間などが迫ってくれば、食事よりも学生の本分である勉学を優先するに至ったのだと考えることもできそうです。
今振り返ってみると、誰かを会にお誘いする時にお声がけすると、共感を得られずに「何が楽しいのそれ?」とあしらわれてしまうこともありましたが、これは表のような価値観の差から生じるものであるとも考えられます。では、人によってこれほど食に対する価値観が違うのはどうしてなのでしょうか。また、その価値観は社会の構造やシステムのどのような側面から影響を受けるのでしょうか。そうした問いを深めていくのが、我々「人と医療の研究室」です。
さて、上述の「生活の中での食の位置付けランキング」作者の渋川は「食の機能を全体的に理解して」いる食事重視派の価値観を望ましいとする立場をとっております。末筆ですが、読者の皆様が留学で「際」を超えられる際は、留学先での食事のことも、生活における重要な役割を担うものとしてご一考されると滞在先での暮らしは一層豊かになるかもしれません。皆様のご活躍を期待しております。
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「人と医療の研究室」では、健康や医療の現代的定義(あり方)そのものに寄与できるべく調査・活動を行なっています。メンバーとして、医療と社会の関わりに関心のある学部生や大学院生の方を若干名募集しております(専攻は不問)。お気軽にご連絡下さい。
Twitter:@hitoken_info
Facebook:@hitoken_info
E-Mail:hitoken.contact@gmail.com
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【注釈】
- これしばし差別的に用いられることもあるように思えるが、いったんその議論は脇に置いていただきたい。
- 筆者は生い立ち上、様々な「家庭の」食文化を経験している。大学生の頃は学生寮に住むこみ、互いに自炊しあったりした。また、しばしば知人のシェアハウスに泊まり込みに行って料理を作りあったりした。さらに、大学院生になってから二年以上の間、共同コミュニティとして自宅を解放して時にホームパーティを行って料理を振る舞いあうなども経験している。「家庭によって食文化が異なる」という気づきはこうした経験に裏打ちされている。
- 拒食や食物アレルギーなどといった問題は、食べるものに対して強力な選択圧をかける要因になるが、これらは食文化とはまた別の、個別の問題として捉えるべきであると考える。拒食と過食という観点からの文化人類学的な視点は下記のURLなどを参照:https://synodos.jp/newbook/19184
- 共食の定義は様々であるが、[3]では、『食事 をともにす ることを人類学では共食と表現する。文字通り「共に食する」という行為である。』とされている。また、[4]では『食事を通して人と人がつながり,他者と共感する機会』と定義されている。
- コミュニケーションツールとしての共食は、しばしば「食育」の文脈で語られるが、本寄稿においてはそれに限らずに議論を展開した。
- 農林水産省の調査によると、一定数の人が地域や所属コミュニティでの食事を求めているということもわかっている。
https://www.maff.go.jp/j/syokuiku/ishiki/r02/pdf/houkoku_2_3.pdf
【Reference】
[1] Daiwa Pharmaceutical Co, Ltd., 「雑食」が人類を進化させた, https://www.daiwa-pharm.com/info/onko/7528/
[2] Roberts, P., Stewart, B.A.(2018): Defining the ‘generalist specialist’ niche for Pleistocene Homo sapiens. Nat Hum Behav 2, 542–550.
[3] 野林厚志 (2004): 文化人類学から見た食文化, 国立民俗博物館学術情報リポジトリ, 5, 134-151.
[4] 中川李子, 長塚未来, 西山未真, 吉田義明(2010): 共食の機能と可能性ー食育をより有効なものとするための一考察ー, 食と緑の科学, 64, 55-65
[5] 七星純子(2018): 第1章 なぜ、子ども食堂は社会的インパクトを与えたのか : 「子ども」イメージの崩壊と「食」を通じた居場所づくりの可能性, 千葉大学大学院人文公共学府研究プロジェクト報告書, 322, 3-22
[6] 石毛直道(2005):「食卓文明論」, 中央公論新社
[7] 渋川祥子(2011): くらしの中での食の位置づけ, 学術の動向, 16, 11, 56-61
※全てのURLの最終閲覧日は 2020年07月07日。
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